日本に暮らして居る以上は、地震との闘いを避けることができない
こんばんは🌙 龍ヶ崎市佐貫町の警備会社。いつも元気な 「BN3」 です🚀
今年は正月も元日から…とんでもない被害が。能登で震度7という極めて大きな地震が発生しました。発生が夕方に近かったこともあり、被害の実態は翌日になるまで、ほとんど把握できなかったようですが、二日には大変な被害が報告されて居ます。まだ今は全体的な状態が、明らかになってない部分もありますが、今後も被害の拡大が予測されるところです。
2011年の東日本大震災や、5年後の2016年の熊本地震など、日本は地震の国だとも言われていますが、本当に地震のエネルギーの凄まじさを感じます。私が最初に大地震を経験したのは、60年ほど昔の1964年6月16日の新潟地震でした。震度そのものは5 でしたが、マグニチュードは 7,5。震源地に近い粟島という島全体が、1メートルも隆起したのです。
液状化現象が初めて現れ、その後の研究対象になった新潟地震。ブログの写真でも見える様に、川岸町という町の県営住宅が倒れて、新潟中央郵便局の直ぐ隣で、明石通に有った三階建てビルの、清水商店が液状化で地面に潜り、信濃川に懸かる 「前月の5月に出来たばかり」 の、昭和大橋の橋桁が地中深く沈んでしまい、行方不明になった。
石油ビナート火災も発生して、当時の 科学消防体制が脆弱なこともあり、延々と類焼して何日もの間、空を焦がしていました。 これも 「石油コンビナート防災」 の指標に活かされ、さらには 「地震保険制度を誕生」 させた地震でした。 また信濃川の河口に近い礎町に有った、巨大な魚市場が津波で壊滅😱
その2年前に制定されたばかりの、激甚法の適用を初めて受ける事態になったのでした。 当時は中学3年生だった私は、中学校が火災で焼失して、分散授業ということで近隣の小学校へ分割されました。ミカン箱を机がわりに、床に座って受けた授業。その小学校で今度は地震に遭遇し、通りを挟んだ目の前には北陸ガスの、円筒形ガスタンクが 二基あって、ゴォ~ンゴォンと大音を立てて、水を吹き上げながら揺れていた。
それだけでも 何時 「ガス爆発」 が起きるのかと不安になるのに、地面は大きく割れて口を開け、そこから青黒い水が噴き出して、右手にはコンビナートの爆発による、赤黒いキノコ雲が立ち上がる、その風景たるや正にゴジラでも現れるのか❓ ってくらいの情景でしたよ。
その後は地震のエネルギーで亀裂だらけの、歪んだグランドに集められたものの、今度は津波が来るから屋上へ逃げろ❗ と指示されて逃げたら、日本海の津波は信濃川を遡り、溢れた水が新潟市内を浸して行く。右往左往の数十分間😖
この時に車が水に流される様子を、屋上から初めて目にして驚きました。津波の水は高台の浜辺に近い市内でも、大人の腰の上くらいまであって、近所の大人が中学生や小学生を迎えに来てくれ、当時のマンホールの蓋は…止められてなかったのでしょうか、長い棒で前を探りながらオレの後ろに付け❗ と大きな声を出しながら誘導してくれました。
その後は飲み水や、掃除の水不足に喘いで居たり、夏場なので病気の蔓延に備えて、消毒用の石灰を大量に撒いたりと、復興するまでには何年もの歳月が必要でした。
このたび能登地震に被災なされた方々の、復興を心よりお祈りいたします。
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